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番外編 無敗のデュエリスト



 薄暮が病室を紅く染め上げていた。
 窓は開いているらしく、微風がときどき頬を撫でていく。深く息を吸うと鼻の奥が痛かった。
 頭痛はまだあるが、耐えられないほどではない。身体が思い通りにならないことのほうが辛かった。唯一自由になる右手も、動かせば名状しがたい倦怠感を伴う。
 人差し指を立てた。「してほしいことがある」という合図だ。くもりガラスのような視界に黒い影が映った。「なあに?」
 人差し指と中指を立ててみせた。デッキからカードを引くときの仕草。「カード」の合図だ。ややあって、手の内側に一枚のカードの感触が滑り込んできた。見る必要は無かった。あの日、託されたカードは、脳のいちばん深いところに刻み込まれている。
 黒い影に向かって呟く。「おふくろ、オレ――」懐かしい香りを近くに感じた。幼い頃、母親にしがみついたときと同じ匂い。
 言い終わらないうちに、意識が身体から抜けるのがわかった。恐怖は感じなかった。来るべきときが来たという直感が、諦観とともに優しく身体を包んでいた。
 眼を閉じる。まぶたの向こうにあいつの笑顔が見えた気がした。やあ久しぶり、迎えに来たよ。苦笑を返して彼の手に自分の手を重ねた。ずいぶん間抜け面の死神だな、ちゃんと連れてってくれよ。
 あの世への旅も、彼と一緒なら悪くない気がした。

   †

 たとえば十三にまつわる迷信はいろいろあって、十三日の金曜日に仮面の狂人が襲ってくるとか悪魔が復活するとか、はたまた十三人が一緒のテーブルに着いたら不吉だとか列挙に暇がない。ちなみになぜ十三が不吉かというのも諸説あるのだが、そのむかし神様の十三番目の弟子が裏切り者だったからという説が有名だ。とはいえ運不運を決めているのが教会の説く神様だとしたら日曜ミサの最中に悪友とつるんで教会に爆竹を打ち込んだ自分なんかとっくの昔に雷に打たれて黒焦げになっているはずで、それが大目玉だけで済んだということはやっぱり神様なんていないということなんだろう。そもそも十三がアンラッキーナンバーなら十三歳なんて一年中不吉の極みだが、十三歳の誕生日を迎えたとたん不幸な目にあったという話は聞いたことがない。なかった。今日までは。
「君の命は、あと一年だ」
 新しく担当医になったという男が自己紹介代わりに出身大学名(そのうち二つはノーベル賞受賞者を腐るほど輩出している超名門だった)を自慢げに列挙した時からいやな予感はしていた。若いくせにいつも眉間に皺をつくっては回診の度にフランス語と英語を混ぜたような専門用語を並べ立て、途中で看護師や研修医が質問すると鼻で笑った後、金を貸し渋る高利貸しよろしくもったいぶって解説をはじめるといった男で、ドクターとしての尊敬なんて欠片も感じなかった。その男が両親まで呼んで、特別に話があるという。また退屈な専門用語のひけらかしかと思ったが、今回は簡単に結論が出た。簡単すぎた。
 あっけない宣言に呆然となっていると、後ろにいた両親が爆発した。
「何を言ってるんですか! 本人の前で!」
「告知はしないでくれと言ったはずだ!」
 何かの冗談かと思ったが――何かの冗談であって欲しいと思ったが――おやじの一言で冗談でもなんでもないと確信した。同時に、両親が病気について隠していたことも。
 二十世紀最後の年に発見されたこの病気は、二十万人に一人が罹る難病だという。治療法の確立は、今のところ絶望視されている。そう医者が言うと、おやじはテレビなら確実に修正音が入るであろう汚い言い方で「黙れ!」と叫んだ。
「患者には現実を知る権利と義務があります!」少壮の医者は早口のイギリス英語(この男が使うと非常に傲慢に聞こえる)でまくしたてた。「死を前にして、それを周りが隠すのは大罪です!」
 大義さえあれば人殺しでも正義となる、そう本気で信じている眼だった。
「いいか、それ以上一言でも言ってみろ。法廷に訴えて、二度と白衣が着られないようにしてやるからな!」
 声を荒げたことのないおやじがものすごい剣幕で叫んだが、医者のキンキン声は止まらなかった。
「私の言っていることは正しい! そうだろう?」取り憑かれたような双眸でこちらを見下ろす。「人は死ぬ。早いか遅いかの違いしかない。君の死は人よりも早いが、だからこそ、残された人生を悔いのないものにするために――」
「もう結構です。今すぐに退院させてもらいますので、残りは弁護士を通じて話し合いましょう」
 おふくろに肩を抱かれ、半ば引きずられるように部屋から出される。しかし、キンキン声はしつこく追いかけてきた。
「訴えたければ訴えればいい。だがこれだけは言わせてもらう。人生は長さじゃない、濃さだ。QOL、つまり命の質というものは、そもそも――」
 人の生き死にを電子レンジの使い方を解説するように手際よく講釈している。彼にとって医師免許を持つということは、人の生をどうこう言える権利を有することらしい。論議をぶった切るようにおやじが全力を込めてドアを閉めると、物凄い音がした。

 眼を開けると、カラフルなペーパークラフトが視界に飛び込んできた。馴染んだ病室ではないことに一瞬違和感を覚えたが、数秒後には自分の部屋に帰ってきたのだと思い出した。
 起き上がろうとしたが、右脳と左脳が喧嘩している。こめかみをアイスピックでざくざく刺されているようで、なんでもいいから気を紛らわせたくてペーパークラフトに手を伸ばした。
「起きたのね。痛いところない?」
 声のしたほうに視線をやる。おふくろだった。
「るせえな。痛くねぇよ。何だこのぞろぞろしたの、ほうきか?」
 ベッド脇に吊るされたペーパークラフトを摘み上げる。よく見るといくつもの小さなペーパークラフトが繋がって鎖状になり、それを束ねて一つのペーパークラフトを形成しているのがわかった。箒にしては手が懲りすぎ、カツラにしては大きすぎる。
 あなたのクラスメートが送ってくれたの、センバヅルというのよ。とおふくろは説明した。日本語ではサウザンドウィングスのクレインと書くらしい。どんな病気でも治してしまう奇跡のORIGAMIそうだ。
 矜持に満ちた声でおふくろが話すときは、JAPANの話と決まっている。おやじとおふくろの故郷であるからにはその子供にとっても故郷になるのだろうが、行きたいと思ったことはなかった。日本と聞いて思い浮かべるのはせいぜい何が面白いのかわからないアニメーションと、何が旨いのかよくわからないSUSHI、それと世界地図の端っこで奇妙に歪んでいるちっぽけな列島の形くらいだ。あまりエキサイティングな国とは思えない。
 おふくろは「お礼の手紙を書かなくちゃね」と笑ったが、そっぽを向いて無視してやった。こんなもので病気が治るのなら、とっくに医者なんて地球上から消滅している(あの医者なら今すぐにでも地球上から消滅して欲しかったが)。神なんか存在しないし、奇跡は起こらない。そのことは入院中、近くのベッドに空きができるたびに思い知らされた。男も女も、子供も老人も、神父だろうとゲイだろうと、家族の前では「神の思し召しだから」と笑っていた人も、夜闇の中では啜り泣きまじりに神に祈る。けれどいくら祈っても助からなかった。どれだけ家族が泣いても、死を惜しんでも、奇跡は起こらなかった。
 石のように黙っていると、
「――ともかく、別の病院で再検査しましょう。いま、お父さんが予約を入れてるから。それから弁護士にもね」
 いつもより低めの日本語で言う。そのとき初めて、おふくろの眼が赤くなっていることに気付いた。
「あんな狂った男のいうことを信じちゃだめよ。合衆国の医療技術は世界最先端ですもの。絶対によくなるわ」
 明るい声は、むしろ自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
 翌日から二人に連れられ、様々な病院を回って検査を受けた。その結果を直に伝えてくる医者はいなかったが、両親の目が日増しに落ち窪んでいたのを見れば、何を言われたかは火を見るより明らかだった。
 何度か裁判所にも呼ばれ、告知を受けたときの状況や心理状態について尋ねられた。弁護士はこちらの言葉ひとつひとつが毒を塗った矢であるかのように大仰に反応し、涙ながらに「7年生には受け入れがたい理不尽きわまる告知」や「いたいけな心を踏みにじる非人道的な行為」を連発した。
 真剣に考えてくれている、この人は味方だと思って、彼が家に来るたび、尊敬とあこがれをこめて金色の鬚の生えた顎のラインを見上げたものだった。そうすると彼は膝をかがめて視線を合わせ、やわらかい笑みを浮かべて言うのだ。「何も心配しなくていいんだよ。君のためにボクができる最善のことをするからね」。
 けれどなんども彼の弁論を聞いているうち、彼の言葉は幾重もの耳心地のよい砂糖で包まれた憐憫「こんなに若いのに死んでしまうだけでも可哀想なのに、それを医者に指摘されて、この子は絶望の淵にいる。ああなんて可哀想な子(どうかこの哀れな子の痛みに見合うだけの慰謝料を)」だと気付き、もう二度と目を合わすまいと決意した。けっきょくあんたも、あの医者と同じかよ。裏切り者。
 それからこうも思った。彼らはきっと死の崇拝者なのだ。死を畏れ、死にひれ伏し、死という神を作り出すことで、死を日常意識から閉め出してしまう。そうして「生きることこそ大切」という一見ポジティヴな論理で死に蓋をする。あの医者はあえてその蓋を外して中を覗き見る自分に酔い、あまつさえそれを正しいと思って他人に押し付ける。弁護士は片方の肩に正義を背負ってはいるものの、けっきょく、より強固な蓋を探して同じところをぐるぐる回っているに過ぎない。方法は正反対だが、根は同じだ。彼らにとって、世の中には二種類の人間しかいない。生きている人間と、死んだ人間。死にそうな人間は死人として扱われる。かわいそうに。でもこれが運命なんだよ。死ぬまでのわずかな日々を精一杯にね。
 弁護士の一人芝居を見ているあいだ、叫び出したい欲求を抑えるのに必死だった。「オレはまだ生きてる。死んだ人間のように語るな」
 もっともそれは――今だからいえることだが――仕方ないことなのかもしれない。どんな立派な正義や理論を振りかざそうと人は生きなくてはならないし、自分の死以上に大きな死などこの世には存在しないのだ。
 おやじもおふくろもそのことを理解できず、ただ「死を宣告された可哀想な子供」としか見られなかったのだろう――少なくともそのときは、そう見えた。

 さんざん病院を連れまわされて得たセカンドオピニオンは直接役には立たなかったが、状況は好転した。症状が落ち着いているうちは、薬を飲むだけで済むという情報を得られたのは僥倖だった(以前入院していた病院は、珍しい病気の記録が欲しくて入院を勧めていたらしい、とこれは弁護士の弁)。おふくろには復学するかと尋ねられたが、かぶりを振って退学の意志を伝えた。今までどおり在宅学習を続けると。昔おふくろがそのための資格を取っていたおかげで、学校で一日かけて学ぶことを半日に短縮することができた。
 おやじは、誇張無しにずっと側を離れようとしなかった。もともと「子供と友達になる」タイプの親だったが、告知以降はまるで親友のように親しげに振舞うようになった。料理が苦手だったおふくろは、毎日のように「何が食べたい?」と訊くようになった。
 この頃は、両親にとってはまるで地雷原の上を歩いているような毎日だったろうと想像する。おやじとおふくろはいつも張り詰めた笑みを浮かべ、自分たちの足音にすら大げさな反応を示した。「病院」「検査」「医者」などの言葉は事実上禁句となった。ひたすら病気を連想させるものを排除することで、平静を保たせようとしたのだろう。もちろんそれが彼らなりの善意に基づくものだと、わからないほど子供ではなかった。けれど一度開いてしまった箱を閉めて、「この中には何もないんだよ」というのは子供にだって通用しない言い訳だった。
 禁忌が破られたのは、ある日の夕食でのことだ。冗談半分に言ってみた「SHUSHIが食いたい」という望みがあっさり叶えられたことに面食らいながら、ちっとも美味しいとは思えない生魚とライスボールを別々に口に放り込んでいた(この量と味であの値段はボッタクリだと思う)。おやじがソイソースを勧めてくれたが、あの独特の鼻をつく匂いが苦手なので断った。気まずい沈黙が降りないようにと気を使ったのだろう、おふくろが明るい声で、
「あなた、この子ったら凄いのよ。もう八年生の問題もすらすら解けるようになったんだから」
 おやじは宝くじが当たったとでも聞いたように相好をくずして、
「さすが私の子だ。末は学者か、大学教授か――」そこであからさまに顔色が変わったおふくろを見て地雷を踏んだことに気付き、慌てて英語に切り替えて付け足した。「つまり――なんにせよ、頭のいいことはいいことだ。うん」
 ギリギリまで伸び切ったものが、ぷつりと音を立てて切れる音がした。
「――もう、いいかげんにしてくれよ。なんでそんなに気を使うんだよ! 普通に振舞えないのかよ!」
 テーブルに向かって言葉を叩き付けた。
「す、すまない」とおやじ。なんとか穏便になだめようという意図がみえみえで、ますます惨めな気分にさせられる。
「オレがあと一年の命だからって、それがどうしたっていうんだ?」言うつもりのない言葉まで漏れ出てしまう。「いつもオレのこと、不良だ不良だっていって煙たがっていたくせに! リチャードとつるんで教会に爆竹を射ち込んだときなんか、オレなんかいなくなればいいって言って――」
 それ以上続けることは出来なかったのは、おふくろの顔を見てしまったからだ。思えば告知の日以来、おふくろが涙を見せたことはなかった――このときまでは。
「お願いだから、そんなこと言わないでちょうだい」おふくろの声はいつもより一オクターブ低かった。「あなたの病気は絶対に治るわ。だから諦めないで。自棄にならないで」
 ――違うんだ。
 本当に言いたかったことはそうじゃなくて。
「嘘だ! 知ってるんだ。奇跡でも起こらない限り、オレの病気は治らないんだ!」奇跡は起こらない。だからオレの病気も治らない。
「――もう、解放してくれよ!」テーブルを叩いた。胸の奥から、言葉があふれてきて止まらなかった。「最期の一年くらい、好きにさせてくれ! あんたたちの思い出作りに使われるのはもう、まっぴらだ! オレを感傷の道具にしないでくれ!」
 ――ただ前みたいに普通に暮せれば、それでよかったのに。
 この日を境に、おやじが纏わりついてくることはなくなり、おふくろは二度と「何が食べたい?」とは訊かなくなった。

 学習は午前中で終わらせ、あとの時間はひたすらケーブルテレビを観て過ごす。大喧嘩の末に手に入れた日常は怠惰だが、わるくなかった。なつかしのスターウォーズから、スーパーマン、スパイダーマン、キングコング、Xメン。昔の映画や再放送の番組だけを選んで観た。新しいものは観たくなかった――なんとなく、自分のいない未来を予想してしまいそうで。
 フィクションの世界は安心に満ちていた。弱者が強者に勝ち、不治の病は治り、死人は生き返った。現実には起こりえない奇跡がそこにはあった。
 その日の番組は、いつもと違っていた。
 アイスホッケーもできそうな広いアリーナ。ニューヨークから生中継でお伝えします、と現れた司会はピエロの恰好をしていた。続いて何千人という観客が歓声を上げているのが映し出される。その下に現れるテロップ「この番組は、録画されたものをお送りしています」
 なにが始まるのかと腰を浮かせかけ、すぐカウチポテトに戻った。長髪のナヨナヨした男が、子供たちにカードゲームを教えるという。M&W。名前くらいなら聞いたことがある。くだらない。
 チャンネルを変えようとして――長髪の男が歓声に応えて横を向いた瞬間、彼の左眼が見えた。いや、見えなかったといったほうが正確か。そこにあるべき眼球は無く、代わりに一目で義眼とわかる金色の球体が収まっていた。
 ――この人、左目を失ったのか……。
 この男は何者だろう。すぐにピエロが答えてくれた。「希代のゲームデザイナーにしてM&Wの生みの親。ご紹介しましょう、Mr.ペガサス・J・クロフォード!」
 再放送らしい番組の内容は、いままで一度も公に実力を見せたことのなかった彼が、エキシビジョンマッチに出場するというものだった。全米チャンピオンのキースという男と、100万ドルを賭けて戦うという。派手な演出とともに筋骨隆々とした白人が、大きな靴音を響かせながらアリーナに入場してくる。同時に観客が湧いた。
 テロップでキースの経歴が紹介される。最強のカード・プロフェッサー。数多くの賞金マッチ、大会などで輝かしい結果を残し、狙った賞金は必ず手に入れることから、『キース・ザ・バンデット』の異名を持つ実力者らしい。
 互いのカードをシャッフルし、いよいよ始まる――会場中が息を呑んだそのとき、ペガサスは観客の中から少年を呼び寄せ、自分の椅子に座らせた。逃げた。会場のあちこちから放送できない野次が飛んだ。
 ピエロの必死の説得のおかげか、しばらくして罵声は収まったが、代わりにため息と失望感が会場じゅうを支配した。もはや勝負の行方は誰の目にも明らかだった。初心者の少年が全米チャンピオンに勝つなんて、それこそ奇跡でも起こらない限り、絶対に無理だ。
 ――奇跡は起こらない。だから少年は勝てない。
 ところが少年は勝った。それもギリギリで競り勝ったというものではなく、鮮やかな一本勝ち。一刀両断のパーフェクトゲームだった。
 義眼の男が少年を連れて画面に寄ってくる。そのとき彼が口にした言葉が、全てを変えた。
「どんなビギナーでもチャンピオンに勝てる、最高のカードゲーム! イッツァM&W!」

 本当だろうか。
 どんなビギナーでも。
 奇跡を、起こせるのか。

   †

「まず『ハーピィの羽箒』を発動。あんたの伏せカードを全て消し去る」
 鬚男の顔が歪んだ。
「手札から『サイバー・ドラゴン』を特殊召喚し、『ゴブリン突撃部隊』を通常召喚。そして魔法カード『サンダー・ボルト』を発動。これであんたのモンスターは全滅。バトルフェイズ、二体でダイレクトアタック。最後に二枚伏せ、ターンエンド」
「俺様のターンだ! ドロォ! っしゃあ! キタァ!」
「ドローフェイズ終了時にトラップカード発動。『破壊輪』。オレの『ゴブリン突撃部隊』を破壊し、互いに攻撃力分のダメージを与える。だがここで『地獄の扉越し銃』を発動。オレが受けるダメージをそっちに移し変える。合計で4600ダメージ。オレの勝ちだ」
「マイガッ! 瞬殺かよ!」鬚面の男は頭を抱えた。「でもよう、『サンダー・ボルト』も『ハーピィの羽箒』も禁止カードじゃねえか」
「勝ちは勝ちだ。禁止カードで負けるのがいやなら、あんたも使えばいいだろ? どうせ公式デュエルじゃないんだから」
「一理あるけど、デュエルって楽しむもんだろ? 勝ちたいだけなら、それこそ公式デュエルへ行けばいいわけで――」
「悪いけど」手を広げて男の言葉をさえぎった。「楽しむためにデュエルしてるわけじゃないんだ、オレは」
 鬚の奥で怪訝な顔をした。じゃあ、何のために? とその顔は語っていた。
「センバヅルって知ってるか?」
 きょとんとした顔で「パードゥンミー?」と訊き返した男を尻目に席を立った。これで今日は二人め。今日中に最低でもあと一人に勝っておきたい。
 『一日三人に勝てば、一年で約1000勝』。デッキを組む前、立てた目標だった。様々なゲームショップを巡り、インターネットで情報を集め、どうすれば勝てるかを研究してデッキを組んだ。その甲斐あって初戦は勝った。次も、そのまた次も勝った。町中のデュエルスペースを回り、勝つためだけにデュエルを続けた。どうしても勝てない相手には、イカサマで勝った。一度デュエルした奴と自分より弱そうな人間は相手にしないと決めたため、相手を求めてグレイハウンド(長距離バス)に乗ることもあった。
 両親が引越しの話を持ってきたのは、300連勝を越え、さすがに地元では対戦相手を探すのが辛くなってきた時だ。行き先を聞いて狂喜した。ニューヨーク!
 彼らがビッグアップルを選んだ理由は、そこに世界最高の医療チームがいるからだった。しかしその治療費は、おやじが簡単に捻出できるようなものではなかったはずだ。それとなく訊くと、あの医者のいた病院が巨額の慰謝料を払ったことをほのめかされた。
 大都市のデュエリストは強かった。五回に一回はイカサマを余儀なくされた。700連勝を数えるころにはイカサマの腕はだいぶ上がったが、代わりに対戦相手に窮乏するようになった。そこでアンティルールを提案した。もし勝ったら、相手のデッキから一枚もらう。もし負ければ、デッキのカードを全てやる。そう宣言すると、たちまち目の前に行列ができた。

 その男と会ったのは、二度ほど季節が変わり、頭痛と吐き気が毎朝の恒例行事になってきた頃だった。目標の1000連勝まで、あと3勝と迫っていた。
「そんじゃ俺のターンね。『魂を削る死霊』を生け贄に、『天空騎士パーシアス』を召喚。『ドリルロイド』に攻撃! 撃破!」
 金髪の少年は得意そうに鼻をこすった。フェイズ確認をしないことといい、間違いなく初心者だろう。
「ボクのターンです。ドロー。スタンバイ」相対する男は、二十代後半といったところか。アジア系にしては白めの肌に、ひと目で染めたとわかる茶髪、やや吊り気味の双眸。日本人か韓国人だろう。「手札より『サイバー・ドラゴン』を特殊召喚。さらに伏せておいた罠カード『洗脳解除』を発動。『パーシアス』はもともと、『エクスチェンジ』で渡したボクのモンスター。よってコントロールはボクに戻ります。二体でダイレクトアタック。なにか発動しますか?」
「くそっ。俺の負けだっ」
「ありがとうございました」
 デュエルボックスの外で二人のデュエルを観戦していたギャラリーが、顔を寄せて何事か囁きあう。
 ――『予定調和』タイプか……。
 相手の行動を「こちらの思い通り」と見せかけることで、心理的に追い詰めていくプレイングだ。たとえば手札交換魔法『エクスチェンジ』で、上級モンスターを渡す。そのモンスターが出て来たら『洗脳解除』等で奪い返す。もし出してこなかったら手札破壊系のカードで捨てさせる。相手はどちらを選んでも「ミスをした」と思う。どちらかといえば一発芸的なプレイングだが、心理戦が大きくものを言う、たとえば公式大会などでいきなり出くわしたら辛いタイプでもある。何をしても「すべて予想通り」と言われれば、気の弱い相手なら簡単に戦意喪失するだろう。
 ――だが、からくりがわかっていれば、大した敵ではないはず……。
 ガラス張りのドアを開けて、男がこちらに向かって歩いてくる。立ち上がった男は意外に上背があった。ギャラリーは「どうする?」「お前やる?」と相談している。
 迷う前に一歩踏み出して、男の前に立ちはだかった。
「よう、オレとデュエルしない?」
 男は驚いたような眼で、彼から見ればはるか下方にあるこちらの顔を見下ろし、訛りのある英語で訊いてきた。
「失礼ですが、日本の方ですか?」
 真実を答えるべきか逡巡した。遺伝的に言えばもちろん日本の方だが、日本の土を踏んだことも無いくせに日本人と見られるのは気恥ずかしかった。
 説明しようかとも思ったが、やはり面倒だったので、頷いてごまかした。彼は安心したように日本語で、
「ああよかった。ボク、読み書きは大丈夫なんですけど、聞くのと話すのがちょっと苦手で。さっきの男の子も、早口でほとんど聞き取れなかったんですよ」
 と苦笑いした。しかたなく日本語に切り替えて、
「大変だな。で、デュエルは受けてくれるのか?」
「もちろん。ルールはどうします? スーパーエキスパート?」
「新エキスパートルールで」
 男は困ったように顎を撫ぜた。「ごめん。どんなルールだっけ?」
「初期LPは8000。バーン系カード、ライフコストはすべてスーパーエキスパートの倍になる。一ターンに手札から出せる魔法・罠の数に制限はない。あとは同じ」
 男は頷いて、出てきたばかりのデュエルボックスを手で指した。「どうぞ」促されるまま、先に入ろうとして振り返る。「言い忘れてたけど、アンティルールも採用する。オレが勝ったらデッキから一枚もらう。その代わりあんたが勝ったら、デッキごとやるよ」
 男は片眉を上げてこちらを探るように見た後、「いいよ」と笑った。
 互いのデッキをシャッフルし、ホルダーにセットする。視線が交錯し、殺気がぶつかって火花を散らした。

「――デュエル!」

 端的に言えば、背高の彼は思っていた以上に強かった。
 こちらの攻撃をのらりくらりとかわし、隙あらば思いがけない方法で奇襲を仕掛けてくる。それは『予定調和』というよりゲリラ戦法と言ったほうがぴったり来る戦い方だった。
「『ダーク・ヒーロー ゾンバイア』を召喚!」
 ハァッという低い掛け声とともに、黒装束に身を隠した戦士が躍り出る。その胸板は異常なほど盛り上がり、黒装束は今にもはちきれそうだ。醜い仮面で顔を隠している。攻撃力は四ツ星モンスターとしては文句なしの2100。
 彼のリアクションがないことを確かめ、フィールドをさした。「『ドリルロイド』に攻撃!」
 黒戦士は興奮した象のような掛け声を上げたかと思うと、ドリル戦車を持ち上げ、投げ飛ばした。地面に激突した戦車が爆炎に包まれる。同時に黒戦士が胸を押さえてしゃがみこんだ。ゾンバイアはもともと死神であり、正義の為に戦うたびに本来の自分との齟齬が生じるため、200ポイントずつ攻撃力が下がっていくのだ。
「オレのターンは終了」
 LPは6600:7500。手札は各四枚、伏せカードは一枚ずつ。
「待った。エンドフェイズで罠カードを発動します。『徴兵令』!」
 『徴兵令』は相手のデッキの一番上をめくり、モンスターカードなら自分の場に召喚、そうでないなら相手の手札に加えるというギャンブルカードである。
 一番上をめくった。罠カード『破壊輪』。そのまま手札に加える。「残念だったな」
 男は笑った。「さあ、それはどうかな」
「ボクのターン。ドロー。スタンバイ。モンスターを守備表示。二枚伏せ、『エクスチェンジ』を発動」
 互いの手札を見せ合い、一枚選んで交換する魔法だ。彼の手札は二枚。上級モンスター『人造人間サイコ・ショッカー』と『手札抹殺』だった。
 ――誘ってやがる……。
 『予定調和』タイプのデュエリストは希少だ。だが過去に一度だけ、その戦いを見たことがあった。
 その真骨頂は相手の心理を、ひいては行動を完全にコントロールすることにある。ある程度カードに慣れた人間は、自分の意志で行動しているように見えて、実はゲーム理論やヒューリスティックス(簡単に言えば経験則だ)によって、機械的に『もっともリスクの少ない手』を選んでしまっている。『予定調和』はその裏をかくことで、ゲームを有利に進めることができる。
 たとえばこの場合、普通なら七ツ星モンスター『サイコ・ショッカー』を選ぼうとする。だがこの二枚のうちから選ばせるというところに罠があるのだ。『手札抹殺』を伏せて、『サイコ・ショッカー』を選ばざるを得ない状況を作り出すことが出来たにもかかわらず、そうしなかった。ならば『手札抹殺』が正解か? それとも上記の論理展開は全て彼の思惑通りで、実は『サイコ・ショッカー』が正解なのか?
 結論から言えば、どちらを選んでも不正解なのだ。『サイコ・ショッカー』を選んで使い慣れないモンスターを生け贄召喚しても、『手札抹殺』で『サイコ・ショッカー』を墓地に送っても、二の手、三の手が用意してあり、結果的に「あっちを選んでおけばよかった」となる。悔恨の種子はやがて敗北という徒花へと成長するだろう。これはカードの闘いではない、精神力の削りあいなのだ。
 ――どっちを選んでもリスクは同じ。ならば確実な手を取るべきか。
「……『手札抹殺』をもらう」
「じゃあボクは『地獄の扉越し銃』をもらうよ。カードを一枚伏せ、ターンエンド」
 受け取ったカードをそのまま伏せた。『銃』は効果ダメージが発生したとき、被ダメージを相手に反射することができる。
「オレのターン。ドロー。スタンバイ。手札抹殺を発動」
 手札には『破壊輪』があったが、もはや使うことは出来ない。
 ――なら、この「引き」で手札抹殺を「正解」に変えてやる!
 手札抹殺の効果で、全てのプレイヤーは手札を棄て、新たな手札をドローする。彼の視線がデッキに行く。今だ。
 素早くカードを掌にしのばせると、デッキに手を乗せ、あたかもいま引いたかのように手札に加えた。
「手札より永続魔法『魔法吸収』を発動。これ以降、魔法カードが発動するたび、オレは500ポイントのライフを得る。さらに『鋼鉄の騎士ギア・フリード』を召喚。そして装備魔法『蝶の短剣−エルマ−』をギア・フリードに装備!」
 M&Wを知っているものなら、一度は聞いたことはあるだろう。『エルマ』の発動によって『魔法吸収』の効果が発動し、500ライフポイントを得る。しかし『ギア・フリード』は全身を鋼鉄に覆われているため、装備魔法が効かない。『エルマ』は破壊され墓地へ行くが、『エルマ』は破壊されると手札に戻ってくるという特性を持つ。そこで再び『エルマ』を発動し、500ライフポイントを得る。これを繰り返すことで、無限のLPを得ることが可能になる。
「そうはいかない。速攻魔法発動! 『サイクロン』! エルマコンボが発動する前に『魔法吸収』を破壊!」
「――っ!」
 いままで多くのデュエリストをしてサレンダーさしめたコンボだったが、あっさりと破られた。
「『ギア・フリード』で守備モンスターを攻撃!」
「ボクの守備モンスターは『マシュマロン』。戦闘では破壊されない」
 『マシュマロン』を攻撃したプレイヤーは、1000ポイントのダメージを受ける。残りLPは5600。
「オレのターンは終りょ……!?」
 終了宣言をしようとして、視線が男の背後に吸い寄せられた。
 細身の女が、まるで蛙のように両手を広げ、デュエルボックスのガラス壁に張り付いていた。無表情だが激怒していることは一目瞭然で、人を殺せそうなその眼光は男に注がれていた。
「――やああああああっと見つけたっ!」
 カウンターの奥で暇そうにこちらを観戦していた店員がびくりとするほどの大声で叫んだかと思うと(日本語だったのだと理解するのに数秒を要した)、女は乱暴にドアを開け、大股に乱入してきた。肩甲骨を覆い隠すロングヘアが、彼女の瞋恚を示すかのように激しく波打っていた。
「や、しばらく」振り返った男は、まるでピザのデリバリでも迎えるかのように片手を上げる。
 柳眉を逆立てた彼女は、火を吐くように言葉をぶちまけた。
「しばらくじゃねぇだろ! 何やってんだこんなところでっ! 誘拐でもされたんじゃないかと、私がどれだけ心配したと――」
 美人の怒った顔ほど迫力のあるものは無い。ヤマトナデシコはおしとやかだと聞いていたが――そして目の前の女性はまさにヤマトナデシコと呼べる外見だったが――どうやら中身はGODZILLAだったらしい。あまりの鉄火に、こちらまで身がすくむ思いがした。
 怒鳴りつけられた男はさぞやちぢこまっているだろうと思いきや、どこ吹く風といった面持ちで、
「黙って出てきたことは悪いと思ってるよ。でも断ったら、ホテルから出させてもらえなかったでしょう」
 さらりと切り返した。
「たりめーだ自分の立場考えやがれ! 帰るぞ!」
 外見にそぐわない粗暴な言葉を吐いたヤマトナデシコが男の襟首を掴むとさすがに慌てて、
「待って。このデュエルが終わるまで待って。いますっごく面白いところなんだ」
 彼女は不服そうに鼻を鳴らすと、渋面でフィールドを一瞥した。「……ギアフリードで墓地に『魔法吸収』……おい、まさか」
「うん。エルマコンボを打たれるところだったけど、なんとか防いだよ」
 女は彼の襟首を掴んだまま、険しい視線をこちらに向けた。
「『エルマ』は禁止カードのはずだろ?」
「公式ならな。これはフリーデュエルだし、そもそもあんたに関係ないだろ」
「ふうん。オコサマには禁止カードの意味がわからないの」
「あんたこそ、自由(フリー)の意味を理解していないんじゃないか?」
「はい、そこまで」男が割って入った。「禁止カードだって誰かが決めたものだし、フリーデュエルでそれに従わなければならない法はないよ。デュエルのスタンスなんてその人の自由だし、禁止カードに納得がいかなかったら従わなければいいさ――でも、ただ勝てばいいっていう考えは、ボクは好きじゃないな」
「……あんたが言うか」
 女は呆れ顔になると、乱暴に男を解放した。「十分。それ以上は待たないから」
 男は半分困惑、半分懺悔を聞く神父のような慈愛の表情を作って、
「というわけだから、そろそろ詰めに入らせてもらうよ。ドロー。スタンバイ。『マシュマロン』を攻撃表示に変更。伏せていた『強制転移』を発動し、マシュマロンとギア・フリードのコントロールを入れ替える」
「……!」
 ギア・フリードを奪われたというより、彼が完璧にこちらの心理を読んでいたと判って、衝撃を受けた。さっきの『エクスチェンジ』で、出した結論は「どっちを選んでもリスクは同じ」。もし『エルマコンボ』を服の中に隠していなければ、『サイコ・ショッカー』を選んでいただろう。そこまで見越して彼は『強制転移』を伏せていたのだ。
 マシュマロンの攻撃力は300。すぐに攻撃してくると思ったが、彼はさらに手札から一枚抜き出し、
「『エクスチェンジ』を発動! いま、ボクの手札は『魂を削る死霊』のみ。よってこれと『エルマ』を交換してもらう」
「――!」
「最後に罠カード『墓荒らし』を発動。2000ダメージを受ける代わりに、君の墓地の『魔法吸収』を使わせてもらうよ。エルマコンボ発動。これでボクはLPの心配をしなくて済む。実は計算は昔から苦手でね。最後にギア・フリードでマシュマロンに攻撃して、エンド」
「……」
 勝てない。
 壜に閉じ込められたような圧倒的な閉塞感と、夜の山道で迷ったような心細さが同時にやってきて、目の前が真っ暗になった。
 無限のLPの前では、パワーデッキはまったくの、無力。たとえるならベースボールで万単位のスコア差がついたようなものだ。たとえチーム全員をホームランバッターで構成していようと、スコアが追いつく前に体力の限界が来て、ゲームセット。
 勝てない。
 あとたった3勝なのに――。
 鼻の奥からせり上がってくるものをぐっと押し殺す。泣くのは後だ。まだ負けたわけじゃない。
 もう一度、デッキの中身を思い返す。LPをゼロにする以外の勝利条件、あるいは自分のデッキを増やす戦術、または相手のデッキを減らす戦術はなかったか――
 数十秒の黙考はしかし、絶望しかもたらさなかった。
 勝てない。
 勝てない。
 勝てない。
 自分が負ける日が来るなんて想像したことがなかった。
 だけど死の宣告は突然で、当たり前に平等だった。
 自分の力なんて無に等しく、可能性は皆無だった。
 ――なら、これ以上引き伸ばしてなんになる?
 デッキの上に手を置いた。あとは一言「サレンダー」か「リザイン」といえば、解放される。

「…………ドロー。マシュマロンを守備表示に変更……エンド」

 できなかった。勝てないとわかっていても。
 この一年間を、無駄にすることはできなかった。
 手放すには、あまりにも重すぎた。
「ボクのターン。ドロー」
 ドローしたカードを見て、男の動きが止まった。
 後ろで見ていた女は、優等生の失態を見つけたように失笑して、「それ入れてたの?」
 男は答えなかった。放心しているように見える。
「――?」
「どうした?」
 彼女が肩に手を置くと、まるで電気を流されたようにビクッとして、続いて眼の焦点が定まった。「――あれ? ここは?」
「……ひょっとして、“観えて”たのか?」
「――ああ、うん、“観えた”。君が起こしてくれたおかげで、全部じゃなかったけど――」
 女は咽の奥で笑った。「“託宣者”の面目躍如だな」
 顔の片方だけを歪めて男は笑い返し――なぜか泣き笑いに見えた――右手をデッキに戻した。そして、信じられないようなことを口にした。
 聞き間違いだと思い、「は? もう一回」
 再び同じことを繰り返した――繰り返したように見えた。今度はほとんど聞こえなかった。男の言葉が終わる前に、「おい、なに言ってんだ!」ヤマトナデシコがヒステリックな悲鳴を上げたせいで。
 男は相変わらず落ち着き払った態度で、みたび繰り返した、
「サレンダー。ボクの負けだ。アンティルールとして、このカードをあげるよ」
 引いたばかりのカードを寄越す。見たことも無いカード。一般には流通していない。
 不思議の国に迷い込んでしまったように、まったく事情が飲み込めなかった。なぜ彼がサレンダーするのだ? 彼は何を『観た』というのだ? 
 女はまるで自分の魂が売り渡されるような悲痛な声になって、
「自分が何をやっているのか、わかっているのか? あんたがここでサレンダーし、そのカードを渡すということは、『アギルト』のメンバーだけじゃない、あんたが今まで闘ってきた、世界中のデュエリストたちへの侮辱になるんだぞ!?」
「“アギルトの託宣者”はもう存在しないよ。君も知ってるだろう、ボクはもう、抜けたんだ」
「けど……だからって、よりにもよって……!」
 平手でテーブルを叩く。黒髪がふわりと沸き上がり、ソリッドビジョンがブレた。
「全ては『予定調和』なんだよ。入れた覚えの無いこのカードがボクのデッキに入っていたことも、このカードを引いたことも……未来から見れば、すべては大きなうねりの中の一ピースに過ぎない。全ての事象は運命であり、必然なんだよ」
 そう語る彼の目は、迷いも曇りも無い漆黒の海だった。
 ふと、この男は死を畏れないのではないか、という気がした。迫り来る死すらも運命と割り切って、迷いの無い冷静な瞳で見つめるのではないか、と。
 戦慄した。
「逃げるな! 戦え!」
 思わず叫んでいた。男は瞠目する。
「サレンダーなんかするな! オレと戦えっ!」
 彼はすごく悲しそうな顔になって、「ごめん――」と謝った。
「――悪いけど、もう行かなくちゃ。次は、イカサマ無しで戦おう」
 彼の言葉は最後通告に聞こえた。残念でした。イカサマをする人間に奇跡は起こりません。
「嫌だ。もう一度、勝負してくれよ……!」
 頼むから。
 こんな勝ち方じゃ、奇跡は起こせないんだ。
 出口でヤマトナデシコがこちらを振り返って、長身の彼を見上げた。
「――いいの? あんな小さな女の子を泣かせて。あと一回くらいなら待ってあげるけど」
 男は振り返らなかった。
「……いいんだ。さっき“観えた”。彼女とは『次』がある――」
 翌日は今にも降りだしそうな曇天で、デュエルスペースに強いデュエリストは来ておらず、おかげであっさり2連勝を決められた。あの男のサレンダーを含めて、これで1000連勝。終わってみればこんなものかと思う。感慨は無かった。イカサマ無しで、健康な身体のまま達成していたら別だったのかもしれないが。
 吐き気がしぶとく頭の中に居座っている。いつもなら薬を飲めば収まるのに。
 来るべき時が、きたのかもしれない。
 ――けっきょく1000連勝しても、奇跡は起こらなかったな……。
 当たり前といえば当たり前の話だ。本気で病気が治ると信じていたわけではない――ただ、なにか目標が欲しかったのだ。目の前の現実を直視しないで済む目標が。
 いいかげん気付いていた。さいきんの自分が、「病気が治ったら何々しよう」と考えてばかりいることに。治ったら学校のみんなに手紙を書こう。治ったら日本へ行ってみたい。治ったら「オレ」はやめよう。少しは女らしくなるのもいいかもしれない。治ったらもっと素直になるから。不良ごっこもやめるから。だからお願いします。助けてください――
 ――なんだ、けっきょく逃げてただけか……。
 新たなデュエルの申し込みを断って出口に向かった。もうここに来ることはないとわかっていても、ふり返る気は起こらなかった。
 ドアを開けると、湿気のこもった風に髪がさらわれた。目の前の舗装道路をビニール袋が凄い勢いで飛んで行ったかと思うと、腰をかがめて歩いていた男のジーンズに仔犬のようにまとわりつき、彼は片足を上げて仔犬を蹴り飛ばした。その横を、形が崩れるほどしっかりと帽子を押さえた老人が追い越していき、旗のように暴れる黒髪を抑えようと四苦八苦している女性とすれ違った。あれだけ長い髪だと、こんな日にはさぞ辛かろう。
 女がこちらを見る。
 見覚えのある顔だった。

   †

 ヤマトナデシコは「ついてきて」と言ったきり、イエローキャブの運転手に行き先を告げた他は一言も喋らず、こちらを見ようともしなかった。「あのカードを取り戻しに来たのか?」と訊いても首を横に振るだけだった。
 やがてタクシーが病院に着くと、彼女はまるでこちらのことなど忘れてしまったように、大股でずんずん進んでいく。小走りで追いかける。「あいつ、怪我でもしたのか?」という質問はすっぱり無視された。
 彼女の足が一つのドアの前で止まった。モルグというのがなにを意味するのか知らなかったが、いやな予感がした。扉を開いた。
 薄暗い部屋にベッドが見えた。
 その上には、人の形に膨らんだシーツがかかっている。
「……なんのつもりだよ?」
 女は黙ったままだった。その沈黙が予感の正しさを証明している気がして、「何の冗談だよ! これはっ!」
 何も言わないまま、女はシーツを剥いだ。中身が明らかになった。
「なん――」あとは言葉にならない。咽から出るはずだった声が胃に入ってしまい、混乱と悪寒が同時に襲ってきた。しばらく声にならない声を咽から絞り出そうと奮闘した挙句、けっきょく最初に言うはずだった言葉を嘔吐した。

「――なんでこいつが死んでるんだよっ!!」

 判っていたはずなのに。
 神様なんていないし、奇跡は起こらない。人は何の意味もなく死ぬ。死神の鎌は平等だ。誰より知ってたはずなのに。
「死ぬな! 眼ぇ開けろよ! 起きろ! 頼むから――」
 だって、次のデュエルがあると言ったじゃないか。
 もう一回デュエルしてくれるって、約束したじゃないか。
「いいから起きやがれこのクソ野郎! ふざけんな……っ!!」
 彼の身体に触れたくなくて――体温のない身体に触れてしまったら、彼の死を認めざるを得ない気がして――ベッドを揺さぶる。何度も。
 女は壁にもたれ、額を押さえていた。何か考えているようにも、後悔しているようにも見えた。「……悪い」と小さく呟き、それから布を元に戻すと、
「行くぞ。……とりあえず、外で話そう」
 日陰のベンチに陣取り、待つこと五分。それは、彼女が口を開く勇気を得るのに要した時間だった。
「――あいつさ、昨日の夜、デュエルを申し込まれて――もちろんあいつが勝ったんだが……」
 相手が悪かった。とある国から、合衆国のM&W学部を目指して留学中の学生だった、と彼女は語った。合衆国のM&W学部というのは法学部や医学部よりはるかに狭き門で、ただでさえ受験生はナーバスになりがちなのだという。加えて留学生の母国には、現役で大学に合格できなかった男性は、必ず徴兵に応じるべしという法律があった。留学生は異常なほど敗北を怖がっていたらしい。その、『敗北恐怖症』とでも言うべき神経症を抱えた学生を相手に、彼は勝ってしまった。それは水素の詰まった部屋に火を放り込む行為と同義だった。留学生は錯乱状態に陥り、所持していた拳銃で……。
「あいつ、撃たれたってのに、私を見て笑うんだ……『ほら、やっぱりあの子にカードを渡しておいて正解だっただろう?』って……。知ってたんだ、あいつ。自分の未来を、撃たれる事も何もかも……。バカヤロウって怒鳴ってやった。そしたら――」あとは嗚咽で言葉にならない。
「彼は、一体――?」
 なんて答えたんだ? と訊いたつもりだったが、
「彼は、『アギルト』の――いや、なんでもない。数日前、ニューヨークでM&Wの世界大会が行われたことは知ってるだろう?」
 頷くと、
「彼はその優勝者――5代目決闘王だった」
「それじゃあ……まさか、オレにくれたカードは」
「そう。世界大会の覇者のみに与えられる、世界にたった一枚のカードだ」
「あのカードが……」
 彼女は涙を拭いて、まっすぐこちらを見た。
「教えてくれよ。なぜデュエリストってのは――君たちは、勝ちに拘るんだ? 勝つことに何の意味がある? 勝って、何が得られるっていうんだ?」
 それは、誰かに向けての質問ではなかったのかもしれない。世界に向けた悲鳴にも聞こえた。なぜこの世界は『勝利』にこだわるのか――。
 ゲームなんだから、楽しむだけでいいじゃないか。勝って得られるのは、一瞬の酔いしれと、負けない限り続く敗北への恐怖なのに。
 ……ゲームの定義が勝者と敗者を分ける作業だということは知っている。けれど永遠の勝利などないということも、同時に知っている。どれだけ強い人間であろうと、かならず負けるときが来る。負けないのはよほど勝利の女神に愛された人間か、ルールを破っている人間だ。
 けれど、たとえ敗北に怯えても、勝ちたい理由があったのだ。
 ひょっとしたら、それは全てのデュエリストにいえるのかもしれない。
 勝負する以上は、勝つことを期待すると同時に(あるいはそれ以上に)敗北も覚悟する。だけど、デュエルを止めないのは、楽しいからだけじゃない、勝ちたい理由がある。
「センバヅルって知ってるか?」
 彼女は首を縦に振った。知っている人間に会うのは初めてだった。
「――くだらない話さ。勝利の数でセンバヅルを作ろうと思ったんだ。1000連勝できれば、奇跡が起こってオレの病気が治る気がしたから――」
「病気?」
 病名を告げると、彼女の顔色が変わった。
「13歳の誕生日にさ、医者にあと一年の命だって言われた。そのときセンバヅルの話を聞いて――でもオレ、素直になれなくてさ、こんなペーパークラフトで奇跡なんて起こるはずないって反発して――でも、心のどこかで『奇跡は起こる』って信じたかったんだろうな。もし千羽の鶴で奇跡が起こるなら、千連勝ならもっとすごい奇跡が起こる、病気は治るって自分に言い聞かせて、とにかく勝とうとした。今思えば、現実逃避だけど」
「……いや、現実逃避なんかじゃないよ。君にとってデュエルは、生きるための戦いだったんだろう」ヤマトナデシコは頬に掛かった髪を耳に掛けた。「それで、今は――?」
「あいつのサレンダーを含めれば、今日でやっと1000連勝」ポケットからカードホルダーを取り出し、あいつのカードを掴んだ。「記念にこのカードをあげるよ。今日で十四歳のオレからの、誕生日プレゼント」
 かぶりを振った。「受け取れない。誕生日プレゼントっていうのはもらうものだろう? それに、君の病気は治る。そしたら、そのカードを使ってやってくれ。あいつの代わりに」
「やめろよ。そういう見え透いたのは好きじゃない」
「別に慰めてるわけじゃない。だって、1000連勝したんだろう?」
「そんなに凄いことじゃないさ。あんたの嫌いな禁止カードを入れて、イカサマまでして無理やりもぎとった1000連勝だ」次は、イカサマ無しで闘おう、と言った彼の声が耳朶に蘇った。「オレは、真剣にM&Wをやってる奴らの心を踏みにじったんだ」
「構うものか。カードゲームを真剣にやってる奴の心なんか、どんどん踏みにじればいい――」俯いた彼女の顔は見えなかった。「――真剣すぎて、人を殺すくらいなら……」
 しばらく互いに無言で時間が過ぎた。沈黙を破ったのは彼女だった。
「M&Wって、ただのカードゲームって気がしないんだ。オカルトめいた噂は絶えないし、製作側サイドで変なことがあったって噂も聞く。エックスというデュエリストとデュエルした人間が次々と意識不明に――いや、すまない。こんなときにする話ではなかったな」
「……」
「私が言いたいのは、このオカルティックなゲームで、イカサマだろうが1000連勝できるような人間は、そう簡単には死んだりしないだろう、ってことだ。君はかならず、病気を治してしぶとく生き残る。私が保証する」

 彼女の保証とは裏腹に、その夜、とうとう恐れていた発作が起こった。
 そして次に眼を開けたとき、視界は薄い膜を掛けられたように焦点が合わず、右手以外はほとんど動かなくなっていた。
 意識があるのはこれで最後だろう、とほとんど直感的に悟った。

   †

 生暖かい風が耳のすぐ横を通り過ぎていった。くすくす、と笑っているような音がした。
 足元はぐにゃぐにゃぬかるんでいて、立っているという感触が希薄だった。大きく息を吸うと、かすかにガソリンを思わせる臭いが鼻をつく。もっとも、あのべとべとしているくせにとらえどころのないところが似ていただけで、それは油の臭いとはかけ離れていた。嗅覚を尖らせてみると、たちまち臭いは霧散した。
 天を覆う薄黒い膜は、手を伸ばせば届きそうなほど近くに見えて、次の瞬間には空よりも遠くに存在しているように見える。
 そういう世界を、ただひたすらに歩いていた。独りで。
 どうやら彼の行き先は天国だったようで、この地獄としか表現しようのない世界で覚醒したとき、隣に彼の姿はなかった。
 脚をいくら前に出しても、前に進んでいる気がしない。それどころか、自分が平坦な道を進んでいるのか、それとも坂を上っているのか、下っているのか、それすらもさっぱりなのだった。それでも前に――自分が前だと思う方向に進む。進まなくてはいけない気がした。
「――そっちじゃないよ」
 振り返ると――あるいは横を向いただけかもしれない。方向感覚が上手くつかめない――見覚えのある漆黒の瞳が、こちらを見つめていた。
「どこ行ってたんだよ、案内人のくせに」
 半眼で睨んでやった。
「ごめんごめん、ちょっと用が」
 苦笑した彼は、まるで待ち合わせに遅れたような気軽さで手を合わせる。おもわず噴き出した。
「地獄でどんな用があるんだよ?」
「話をそらすようだけど、ここはまだ黄泉じゃないよ。ここは、いうなれば現世と冥界の中間地点ってとこかな」
「知ってる。ブディズムでは、嘘つきがエンマに舌を抜かれるところだろう?」
「カトリックでは、現世の罪を許される場所でもある」
 彼は祈るように上を見上げた。
「――オレへの贖罪のつもりか? あんたがまだここにいるのは?」
「まさか。全ては『予定調和』なのさ。言っただろう? 君とボクは、もう一度戦うって」
 彼は一歩こちらに近づくと、脚を肩幅に開いた。
「デッキもないのに?」
「デッキは自分自身、数千の選択肢から選ばれたカードの束が、自身の分身でないわけがない。好むと好まざるとに関わらず、その選択ひとつひとつは自分らしさなんだから。そうして選別されたデッキは、己の運命でもある」
 彼はぐっと拳を突き出すと、開いて見せた。手品のように、掌にデッキが乗っていた。「さあ、君も」
 同じように拳を握り、開けてみる。だが、カードは現れなかった。困惑気味に彼を見上げると、
「君にならできるはずだ。運命は常に自分の手の中にあると、君がボクに教えてくれたのだから」
 頷いて、もう一度手を握る。祈るように。初めて組んだデッキを掴んだときのように。
 手ごたえがあった。彼を見ると、ほらね、というように笑って頷いた。
 ルールを確認する必要は無い。この決闘ふさわしいのは、最高難易度をもつルールしかなかった。

「――デュエル!」

 彼にならって左手の甲にデッキを置くと、まるで見えない決闘盤があるかのように、ぴったりと吸い付いて離れなくなった。手札を五枚ドローする。今まで使っていたデッキではなく、どちらかといえば守備力重視の構成だった。
「オレのターン。ドロー。スタンバイ。カードを一枚伏せ、モンスターを守備表示。エンド!」
 カードを置く場所を探す必要は無かった。手札から抜き出した瞬間、感触は失われ、代わりに目の前に実体化した。ただの立体映像とは違い、触ることもできるのだろう、と説明されなくてもわかった。
「ボクのターン。ドロー。スタンバイ。ボクも一枚伏せ、『ドリルロイド』召喚。守備モンスターに攻撃!」
 樽ほどもあるドリルの鼻を持つ四輪駆動が目の前に迫る。あまりのリアルさに足がすくんで動けない。
 凶悪な戦車を押しとどめたのは、二人の大人がすっぽり入りそうな盾だった。火花が散り、焦げくさい臭いがあたりに漂う。
「『ビッグシールド・ガードナー』か。君の心を守る『壁』は相当厚いようだ」
 ガードナーの守備力は2600。ドリルロイドの攻撃力は1600。だが、ドリルロイドは守備モンスターを数値に関係なく破壊する能力を持っている。
 にび色のドリルが、とうとう巨盾を貫いた。盾を支えていた男も同時に霧散する。「ターンエンド」
「オレのターン。ドロー! スタンバイ」背高の彼を見て、不思議なことに気付いた。彼のデッキが裏返しになっている……いや違う。デッキの一番上のカードが、透けている?
「おい、そのカード……変じゃないか?」
 彼はデッキをしげしげと見つめ、「どこが?」と返した。見えていないらしい。
 ――まさかとは思うが……試してみるか。
「ここでオレは伏せカードを使う。『徴兵令』!」
 彼がデッキの一番上をめくる。現れたのは、どんぴしゃり、透けて見えたモンスターだった。
「『人造人間サイコ・ショッカー』を特殊召喚!」
 毛のない紫色の頭にガスマスク然とした仮面をつけ、特殊合金でできた緑色のロングコートを纏っている。身体のパーツはあきらかに人間離れしており、特に首は長すぎた。攻撃力は、七つ星モンスターとしてはまあまあの2400。だが、その恐ろしさは戦闘力ではなく、コートと同じ色をした奇怪な仮面にある。真紅のレンズはどんな罠カードも見抜き、その発動を無効化してしまうのだ。
「こいつでドリルロイドを攻撃!」
 サイコ・ショッカーの掌から虹色のエネルギー弾が放たれる。戦車は素早く右に避けようとしたが、後部車輪が引っかかって爆砕した。
「一枚伏せ、モンスターを守備表示で出す。ターンエンド」
「ボクのターン。ドロー。スタンバイ。手札より魔法カード発動。『エクスチェンジ』。互いに手札を公開し、一枚選んで交換する」
 彼は手札を裏返した。上級モンスターカードが一枚と、あとは魔法カードが三枚。なるほど、手札を交換したくなるのもわかる。
 今、こちらの手札に四ツ星以下のモンスターは『魂を削る死霊』のみ。彼は必ずこれを選ぶだろう。とすれば、もらうべきカードは……。
「『天空騎士パーシアス』をもらう」
「ボクは『魂を削る死霊』を選ぶよ。守備表示で出し、ターンエンド!」

「オレのターン! まずは守備モンスターを生け贄に、『天空騎士パーシアス』を召喚!」
 純白の羽根で装飾され、金で縁取られたメタリック・ブルーの鎧。重々しい外見とは裏腹に、まるで体重などないかのように半人半馬の騎士は地面に降り立った。
 攻撃力は、生け贄が必要な五ツ星モンスターとしてはいまいち低い1900。だが二つの特殊能力を備えている。
「パーシアスで守備モンスターに攻撃!」
 騎士の突進力は、壁モンスターを貫通し、超過分のダメージをプレイヤーまで届かせる。一方『魂を削る死霊』は戦闘では破壊されない代わりに、守備力はわずか200。その差分が引かれ、彼の残りLPは1500となった。
「プレイヤーにダメージが入ったので、パーシアスの特殊能力が発動。一枚ドローして、ターンエンド」
 サイコ・ショッカーが場にいるかぎり、互いに罠カードを使うことはできない。この制限下で、パーシアスか死霊を消し、さらにサイコ・ショッカーの攻撃を防ぐという奇跡の一手を思いつかないかぎり、彼は負ける。
 しかし、同時に確信もしていた。世界最強の決闘王は、こんなところで終わらない、と。
「ボクのターン。ドロー。スタンバイ。『魂を削る死霊』を攻撃表示に変更!」
 ――この状況で、たった攻撃力300のモンスターを攻撃表示……『強制転移』か!?
 パーシアスを奪われた場合――と始めた計算は、無駄に終わった。彼の出したカードは予想を完全に裏切るものだった。悪いほうに。
「伏せカード発動。『所有者の刻印』」
 ――っ!
 油断した。てっきり前とは違うデッキを使っているものと思い込んでいた。
 『所有者の刻印』の効果によって、全てのモンスターは持ち主のコントロール下に戻る。パーシアスとサイコ・ショッカーは彼の場に行き、攻撃表示の死霊はこちらへ――。
「サイコ・ショッカーとパーシアスで、魂を削る死霊を攻撃!」
 青の騎士が一瞬で肉薄してきたかと思うと、次の瞬間、死霊の背中から青い腕が突き出ていた。まるで喝采を上げるかのように騎士は腕を振り上げ、死霊の身体がロケットのように発射される。打ち上げられた死霊に、人造人間から放射された虹色のエネルギー弾が直撃し、さらに数十メートル飛ばされた。
「パーシアスの能力で一枚ドロー」
 上級モンスターの連続攻撃によってLPのほとんどを持って行かれ、残りわずか300。一転して窮地に追い込まれた。
 ――けど、手札には『氷帝メビウス』がある。『死霊』を生け贄にこいつを出せば、なんとか次のターンはしのげるはず……。
 このままターンを終了してくれることを願いながら、彼のほうを見上げた。と、再び不思議なものが見えた。彼の手札の一枚がこちらを向いている……いや透けている。そして今まさに、彼はそのカードを抜き出そうとしていた。
 ――まずい、あのカードを使われたら……!
「君の手札に『メビウス』があることはわかっているからね。手札より魔法カード『手札抹殺』を発動! 全てのプレイヤーは手札を捨て、捨てた枚数ぶん、新たにドローする。ターンエンドだ」
 二度も見えないはずのカードが見えた。不思議を通り越して異常だったが、そもそも冥界(と現世の間?)でデュエルしていること自体が異常だと無理やり自分を納得させた。今はミステリーの謎を追うより、デュエルに集中するべきだ。
 互いに引いたカードは四枚。彼の場には上級モンスターが二体、対するこちらには攻撃表示の『魂を削る死霊』が一枚と、伏せカードが一枚。
 手札に状況を打破する方法はない。このドローで逆転できなければ、ジ・エンド。
 デッキに指を乗せる。「ドロー――……?」思いがけない抵抗があった。カードを引くはずの指が、そのままデッキから滑り落ちる。接着剤でくっつけたかのように、カードがデッキから離れなかった。
 ――引けない……?
 彼は言った。デッキとは運命だと。
 デッキがなくなったデュエリストは敗北する。それは、運命が途切れたということなのだろう。
 ならば、デッキからカードを引けないデュエリストは、運命に見限られたということなのだろうか――。
「逃げるな! 戦え!」
 突然、大音声が降ってきた。
「覚えてる? 君がボクにそう言ったんだ。逃げずに、運命と戦えと」
「……ああ」
「ボクはね、自分の未来が観えるんだ。ボクはそれを“運命”だと解釈し、絶対に変えられないものだと思っていた。でも、君の言葉で思った。ボクはただ、未来が“観える”ことを言い訳に、戦うことから逃げていただけではないだろうか、ってね――」
 だから君にあのカードを託したのだ、と彼は語った。傍らにいた彼女を納得させるために嘘までついて。それは、彼が“観た”未来にはない行動だった。
 それが、彼の戦い。
 未来を変えることはできなかったのかもしれない。彼は結局、自分の観た死から逃れることはできなかった。
 けれど。
 似ていると思った。死を宣告され、どうしていいかわからないまま、奇跡を求めた自分と。
「オレは――ただ、何もせずに死んでいくのが、怖かっただけだ」
 それは逃避だったのかもしれない。
「それも強さなんだよ。たとえ未来がわかりきっていても、それに恭順することなく、何か変えられるはずだ、何かできるはずだと行動すること、それが戦うということなんだ――」
 ただの反発だったのかもしれない。
「ボクはあのサレンダーを後悔している。未来になんか従わず、決着が付くまで戦っておくべきだったとね。だから、ボクはそれを取り戻すためにここにいるんだ」
 運命は変わらないかもしれない。けれど、引いたカードをどう使うかは、その人の自由だろう。
 再びデッキに手を乗せる。
 デッキは運命、手札は可能性、そしてドローは、未来を引き寄せる行為。
 もし、まだ未来が残されているなら――。
「ドロー!」
 ――よし!
「速攻魔法『月の書』を発動! 『サイコ・ショッカー』を裏守備表示に変更!」
 闇にとらわれたサイコ・ショッカーは、罠無効のマスクも封じられる。「さらに罠カード発動! 『リビングデッドの呼び声』! 蘇生させるモンスターはもちろん、『氷帝メビウス』!」
 地面から這い出す仮面戦士。攻撃力は、サイコ・ショッカーと同じ2400。できれば厄介な人造人間を片付けておきたかったが、そうもいかない。「メビウスでパーシアスを攻撃!」
 高速の水弾が宙を走る。青い鎧にいくつもの穴を穿たれ、天空騎士は倒れた。これで彼のLPは1000。
「最後にモンスターを守備表示で出し、死霊を守備表示に。伏せカードを一枚出して、ターンエンド!」

 こちらにはモンスターが三体と伏せカードが一枚。LPは300しか残ってないが、彼には裏守備表示の『サイコ・ショッカー』が一体のみ。なんとか守りきれるだろう。
「ボクのターン。ドロー。スタンバイ。カードを一枚伏せ、ターン終了」
 ――どういうことだ?
 サイコ・ショッカーを再び攻撃表示にし、守備モンスターに攻撃してくると思っていたが、見事に裏切られた。
 ――サイコ・ショッカーを表にしなかったということは、伏せカードはたぶん罠カードだろう。速攻魔法という可能性もなきにしもあらずだが、代表的な速攻魔法――『月の書』『収縮』『エネミーコントローラー』などなら、伏せずに使っていたはずだ。
 ただの牽制とも考えにくい。何も手がないのなら、少なくとも『サイコ・ショッカー』を攻撃表示に戻しておくはずだ。
 同じ理由で、『和睦の使者』や『威嚇する咆哮』など、ただ攻撃を無効にするだけの罠も切り捨てられる。
 ――となると、攻撃によってなんらかの利益を得る罠カードか……。
 もし『魔法の筒』や『沈黙の邪悪霊』だとしたら、攻撃した瞬間、こちらのLPはゼロになってしまう。ここは攻撃しないほうが賢明。
 わかってはいても、胸の奥にもやもやが残った。一千人のデュエリストと戦ってきた経験といえば聞こえはいいが、要するに勘が警鐘を鳴らしていた。ほんとうに、攻撃しないでいいのだろうか?
 常識で考えれば、上級モンスター『サイコ・ショッカー』をみすみす見捨てるデュエリストはいない。しかし、もし彼に『サイコ・ショッカー』を守る意志がないとしたら……?
 伏せたカードは、攻撃したときに発動する罠だとばかり思い込んでいたが、違うとしたらどうだろう。サイコ・ショッカーはメビウスの一撃で確実に倒され、その後攻撃力1000以上のモンスターでダイレクトアタックを食らえば彼は負ける。そのリスクは彼も当然承知しているはずだ。伏せカードは、最低限、それを阻止するものでなければならない。
 ――そうか!
 『リビングデッドの呼び声』なら、全ての説明がつく。罠と警戒して攻撃しなければ、次のターンで『パーシアス』を蘇生して『死霊』に攻撃。モンスターを召喚して攻撃すれば、『パーシアス』か『サイコ・ショッカー』を蘇らせて返り討ちにすることができる。
「オレのターン!」
 ――今、『パーシアス』の攻撃から身を守る術はない。このドローに賭けるしかない……。
 彼の言によれば自身の分身とはいえ、初めて使うデッキだ。戦略は行き当たりばったりにならざるを得なかった。デュエルの前の短い時間で確認したところ、ほとんどがギャンブルか壁モンスターで構築されていた。
「ドロー!」
 引いたカードは、またしてもギャンブルカードだった。思う。自分はそんなに博打が好きだったか? ……すくなくとも知るかぎりのご先祖様にイギリス人は見当たらないし、他に思い当たる節はない。注目すべきはギャンブルカードの効果だった。どれもこれも「賭けに成功すれば相手のカードを奪う」ことに終始している――奪う、利用する……相手の力を利用して勝つ?
「伏せカード発動! 『予言』。相手の手札を一枚選び、攻撃力が2000より上か下かを当てる。当たっていれば、そのカードはこちらの手札になる!」
 彼の手札に眼をこらす――恐竜らしきモンスターの絵柄が見えた。
「オレから見て、右から二番目のカード。攻撃力は2000より上だ」
「……正解。このカードは君のものだ」
「『魂を削る死霊』と守備モンスターを生け贄に、『暗黒恐獣』を召喚!」
 人の頭ほどもある牙を持った恐竜が出現する。凶暴そうな外見どおり、レベル7、攻撃力2600の上級モンスターだ。さらに相手フィールドに守備モンスターしかいない場合、プレイヤーに直接攻撃することができる。
「バトルフェイズ! 『メビウス』で『サイコ・ショッカー』に攻撃!」
 ――まず『メビウス』で壁モンスターを粉砕。さらに『リビングデッド』で蘇ってきたモンスターを、『暗黒恐獣』で破壊する!
 思ったとおり、『メビウス』の放った水流は阻まれることなく『サイコ・ショッカー』を押し流した。
「さらに『暗黒恐獣』で攻撃!」
「そうはいかない。伏せカード発動!」
 ――バカな!
 表になったカードは、予想とはかけ離れたカードだった。
「意外そうな顔だね。『リビングデッドの呼び声』だとでも思っていたのかな?」
 ――!!
 読まれていた。
 顔に出してはいけないとわかっているのに、驚愕を隠せない。
「確かに、先ほどのボクの行動から論理的に導き出される答えは「『リビングデッド』を伏せた」しかない。けれどその、「人間の行動はすべて、論理的に説明できるはずだ」という前提こそ落とし穴だったのさ。人間ほど不合理な生き物はないのにね」
 彼が伏せていたカードは、永続罠『洗脳解除』。発動中、全てのモンスターはオーナーのコントロール下に置かれる。『暗黒恐獣』は攻撃を止め、彼のフィールドに寝返った。
「……たとえそうだったとしても、なんで、オレが『暗黒恐獣』を出すと……?」
 彼は待ってましたといわんばかりに指を三本突き出し、滑らかに説明を始めた。
「ポイントは三つ。最初のポイントは、ボクらの最初のデュエル。『サイコ・ショッカー』か『手札抹殺』かの場面で『手札抹殺』を選んだでしょう? あのとき君はこう考えていたはずだ。『サイコ・ショッカー』と『手札抹殺』のどっちを選んでもリスクは同じ。なら、より確実なほうを取ろう、とね。そこで明らかに堅実な『サイコ・ショッカー』を選ぶはずだったんだけど、君が選んだのは『手札抹殺』だった。あの時は焦ったけど、次のターンで謎が解けた。あれはどこかに隠していたエルマコンボを手札に加えるための準備だった、とね」
「……ごめんなさい」
「過ぎたことにこだわるつもりはないよ。それよりここで重要なのは、『君は不確定要素にはなるべく手を出さず、より確実な手をとる人間である』ということ。これがポイント一。
 しかし、ポイント一で早速矛盾が生じる。君の分身であるはずのデッキに、『徴兵令』というギャンブルが入っていたということ。これは君の性格と矛盾している。そこで想定される仮説は三つ。
 @君のデッキは「相手のカードを奪う」コンセプトで成り立っていて、『徴兵令』はその補助。
 A君の使う『徴兵令』は、何らかの理由で不確定要素に頼らない。
 Bその両方」
 相手のカードを奪う――つまり、「相手の力を利用して勝つ」戦略には思い当たる節があった。ずっと前だが、父方の祖父から日本の格闘技を習ったことがあるのだ。名前は忘れたが、相手の力を利用して投げ技や固め技に繋げる格闘技だった。おかげで今に至るまで喧嘩は負け知らず。昔は同級生を散々泣かしてよくスクールカウンセラーに呼ばれたものだ。
「しかし@だとすれば、これまで相手のカードを奪う代表的なカード――『洗脳』や『強制転移』が出てこないのも気になる。それに『徴兵令』の発動タイミングも変だった。あのタイミングで発動させるヴァリッドな理由がまったくない」
「さっき『人は論理的に説明できない』、って言ったのは誰だ?」
「論理的であるということと、動機付けは別物だよ。ホモ・サピエンスが理由のない行動をすることは稀有だと思うね。ましてやゲームの、それも序盤から無謀な行動をするとは思えない。ということは、君は何らかの方法で、デッキの一番上が『サイコ・ショッカー』であると知った。だがどうやって? こんな場所までイカサマを持ち込めるとは思えない。つまりこれは、何らかの超能力が働いた結果だ、とボクは結論付けた。これがポイント二」
「……それは、推理を諦めた、と同義じゃないのか?」
「推理小説ならね。「犯人は超能力を使った」というのはノックスの十戒に反している。だが現実に、ボク自身がESP――エキストラセンサリーパーセプション――『知りえない情報を知覚する』力を持つ以上、可能性は否定できない」
「……」
「この能力を得てからというもの、他にもESPを持った人間がいる可能性についてもいろいろ考えたよ。たとえばクレヤボヤンス――透視能力を持った人間についてもね。
 もし君が透視能力を持っていたとすれば、これまでの矛盾は解消される。後は推量にそって可能性を広げていけばいい。もし自分が透視能力を持っていたら、どんなカードを使うか? 『徴兵令』と『予言』だろう、ってね。さっきの仮説で言えば、君のデッキはBだとボクは考えた。ここがポイント三。君の伏せカードが攻撃阻止型の罠でないことは判ってたし、たとえ『予言』や『徴兵令』じゃなくても、いつかはこちらのカードを奪いに来るだろうと思って、『洗脳解除』を伏せておいたんだ」
「……五代目決闘王、か。はじめは疑わしく思ったけど、間違いない、あんたはたしかに超一流だよ。……カードを一枚伏せ、ターン・エンド」
「――今となっては何の意味もない肩書きだけどね。ボクのターン。ドロー。スタンバイ。『暗黒恐獣』で『メビウス』を攻撃!」
 現代に蘇った恐竜は、その巨躯からは想像もつかないスピードで仮面戦士に迫ったかと思うと、あっさりと仮面戦士を踏み潰した。残ったのはたった100のLPと、一枚の伏せカードのみ。
「さあ、これでもう後がない。ボクのターンは終了!」

 いま、手札にモンスターカードはない。次のドローでモンスターを引けなければ、確実に負ける。
「オレのターン。ドロー!」
 引いたカードは、攻撃力1800の四ツ星モンスター。
 ――こいつを守備表示で出して次のターンをしのいでも、その次またモンスターを引けるとは限らない。これで終わりか……。
 それ以外の手札は、どれもこの状況ではまったく使えないものだった。
 ――なら、いっそのこと……。
「『忍者マスターSASUKE』召喚!」
 小柄な忍者が宙で一回転して着地すると、クナイを構えた。
「あんたの推理には、一つだけ間違いがある。なぜかカードが透けて見えたのは本当だが、全てのカードが見えたわけじゃない。むしろ見えないカードの方が多いし、現に今、オレにはどのカードも透けて見えない」
「そうじゃないかと思ってたよ。君の能力は、ここに来て初めて覚醒したんだろう。もし最初から透視能力があったなら、あんなデッキは組んでいなかっただろうしね」
「その上で、オレはこのターン、最後の賭けに出る。この賭けに勝てたらオレの勝ち。そうでなければあんたの勝ちだ」
「面白い」
「行くぞ、伏せカード発動! 『徴兵令』!」
 相手のデッキの一番上。さっきとは違い、まったくイメージが湧かない。
 正真正銘、最後のギャンブル――。

「――ざんねん」

 引いたカードは『聖なる魔術師』。便利な特殊能力があるものの、攻撃力は300とすこぶる低い。
 攻撃表示で特殊召喚された魔術師は、場に出ている『洗脳解除』の効果により、彼のフィールドへ行く。
「SASUKEで聖なる魔術師に攻撃!」
 クナイを地面と水平に構え、目にも留まらぬ速さで魔術師に肉薄する。力量の差はわかっているようで、魔術師は逃げようともせずじっとしていた。忍者は一瞬で背後を取ったが、クナイは使わず、軽く手刀を肩と首の間に下ろした。
 魔術師が崩れ落ちる。同時に、フィールドの他のモンスターもフェードアウトした。
「君の勝ちだ。おめでとう」
 かぶりをふった。「明らかに勝っていたのはあんただった。オレが勝てたのは、奇跡みたいなもんだ」
「いいや、君にはわかっているはずだ。運命と戦えば、奇跡は起こるべくして起こる」
 ボクがこうして君とデュエルできたことさえ、既に奇跡なんだから、と彼は続けた。

「――よく言う。その奇跡すらも“観えて”いたのだろう?」

 低い、忍び笑いが飛び込んできたのは、そのときだった。
 聞いたことのない声。聞いたことのない言語。理解できないはずなのに、耳から脳に流れ込む間にそれは確かに英語に変換されていた。
 辺りの闇が濃さを増していく。遊びに夢中になって日が落ちるのに気付かなかったというレベルではない。夕方を盗まれてしまったように、急速に夜が訪れようとしていた。
 小走りで彼に寄った。見渡せる範囲はどんどん減っていくが、彼は全身から淡い燐光を放っていて、見失うことはなかった。
「――そなたらの闘い、確かに見届けた」
 闇が囁いた。
 彼を見上げると、「ヨモツクニの支配者、イザナミノミコトだ。エンマ大王みたいなものだよ」
 とっさに口を押さえると彼は噴き出した。
「大丈夫。舌は抜かれないよ」
「――己のさだめは、己で切り開くがそなたの理か。【第三眼】をそなたに渡したのは、野暮であったな……」
 闇が笑った。笑ったように聞こえた。
 彼は友人と話すような気軽さで答える。
「そうでもないさ。いろいろ楽しかったよ」
「そうか。では娘よ。闘いの儀により契約は成った。そなたの義を認めよう。これよりそなたは我の一部となり、我はそなたの一部となるであろう――」
「おい、何言って――?」
 言い返そうとしたときには、既に闇が晴れていた。
 いつの間にか見あげる空が白み始めている。冥界にも朝があるのだろうか。

 ……空?

 なんで寝転んで空なんか見てるんだ。彼の隣に立っていたはずなのに。
「――リサさーん!」
 名前を呼ばれて眼を開けた。あれ、今まで眼を閉じてたっけ。
「あっ! 眼を覚ましましたよ! お母さん!」
 暗闇の中でおふくろの声がした。
「――母さん。どこ……?」
 自分のものとは思えないほど、それは自信なげで弱弱しい声だった。
 全身を覆う脱力感のせいだろうか、眼をいっぱいに開いているのに、濃いサングラスを掛けているように視界が暗い。もしかしたらずっとこのままなのかもしれない。
「――亜理紗! 亜理紗! よかった……!」
 母さんの手を頬に感じて、気が付いたら涙が出ていた。帰ってきたんだ。この世界に。
 何も見えなくても、ここにはぬくもりがある。
 生きてる。

   †

 精密検査の結果、二つのことが判明した。
 一つは、視力回復の見込みがない、ということ。視神経が完全に死んでしまい、現代医療では治すことはできないそうだ。
 もう一つは、病気の原因だったウィルスが完全消滅した、ということ。仮死状態になったことが上手く働いたらしいが、詳しいことはよくわからない。いま、健康体だということが判れば充分だ。
 おやじとおふくろ――じゃない、女らしくなるんだった――父さんと母さんはそれを聞くなり、狂喜してあたしを抱きしめた。
 力強く抱きしめてくるふたりの肩を抱き返しながら、あたしはどうやって「高校は日本に行きたい」と切り出そうかと考えていた。


☆アトガキ☆

 このシリーズはジャンルを意識せず、どの年齢層でも読めるように書いているつもりですが、この話だけはライトノベルと呼ばれるジャンルに近いのではないかと思います。テーマとかまとめかたとか。もろもろ。
 書きたいことをぜんぶぶちこんで書きました。後悔はありません。

 書き手としては、話の良し悪しより、読者様が「いつ主人公の正体に気づいたか」が気になる番外編。
 いつもより長めの分量でお届けです。(なのにまともなデュエルが一回しかないのはどういうことだ)
 お疲れ様でした。
 ここまで読んでくださってありがとうございます。

 文章力もないのに詰め込みすぎた感があります。テーマも、技も。それでもこの話だけはこの形で書きたかった。書かねばならなかったのです。この話無しにはエックスは成り立たない、といっても過言ではありません。書き直したために公開が大きく遅れ、更新を心待ちにされていた方には、本当に申し訳ないことをしたと思っています。精進します。

 本編に出てくる『キース・ザ・バンデット』は『バンデット・キース』の間違いではないのか? という疑問ごもっとも。基本的に作者は原作loveですので、正式な通り名は『バンデット・キース』です。ただしそれは日本語の場合。今回は「主人公は英語で考えたりしゃべったりしてるけど、なにか不思議な力によって(笑)日本語に翻訳されている」というややこしい話なので、『キース・ザ・バンデッド』のほうが自然かな、と思ってこう書かせていただきました。(ただし明確に確認したわけではないので、「英語でも『バンデット・キース』って言うよ。そっちの方が自然だよ」と思われた方は、ぜひプラバンにご一報を)
 なお、ペガサス&キース登場シーンは、単行本第10巻を参照しています。お手持ちの方は比べてみてください。

 蛇足をひとつ。冒頭で倫理問題や生死の問題に少し触れていますが、主人公の考えが一概に正しい、と思っているわけではありません。こういう考え方もあるんだ、くらいにとどめておいてください。

 さて今回も出てしまったオリジナルカード。
『蝶の短剣―エルマ』
 破壊されると「持ち主の」手札に戻ります。OCGプレイヤーの方々はどうぞ誤解のなきよう。

 お待たせしました。次回はいよいよM&W地区大会です。ミドリ君が大変なことになります。


 ※この小説はイカサマまたはアンティデュエルを教唆または推奨するものではありません。実際のデュエルでやっちゃだめですよ。

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